■ 2004年12月17日
元祖「式神シュー」。
CAVEシューではかなり特異な存在だと思うのですよ。この作品。
「式神」という単語が一般的でなかった頃の作品だから無理もないけど。 式神が一方的に使役されてるわけでない世界観は理に適ってる気もする。
問題は、携帯のボタンで果たして式神を上手く操作できるのかということ。 ボタン押し損ねてコンボ切れたら思わず床に叩きつけてしまいそうで。 参考リンク アーケード版「ぐわんげ」のページ 追伸 先日Extendeadさんの東方話にコメントをしたところあろうことかリンクを頂いてしまったので、私の東方について思うところも書いておこうかな、と。 永夜抄でZUN氏はこんなコメントを残している。 >>「このゲーム、今までにない方法で弾幕を使用しているんですよね。」と。 つまり、伝えたい「何か」を伝える為に「弾幕」という媒体を用いているだけであって、「稼ぎ要素を深める」、「難易度を上げる」ことなどを目的とした商業STGとは切り離して考えるべき存在だ、と言っている・・・のだと思う。 この考察で物を言うのがスペルカードの存在だ。 ただの記号としての敵弾の集合体から、名前を与えてパッケージ化することによって、読解可能な超言語的存在にまで昇華させられた「それ」が何を語らんとしているのか。 「個性的なキャラクター」、「練りこんだ世界観」このファクターをもつ創作物と言えば、私は真っ先に小説を思い浮かべる。 一意的な言葉によるキャラクター性の定義ではなく、媒体として弾幕を記号論的に用いることで、「読者」の解釈により一層の幅を持たせ、それは「読者」が能動的に作品に参加できる状況を作り出している。 つまり、我々は「東方紅魔郷」という小説を読む代わりに「東方紅魔郷」というゲームをプレイするのだ。 だが妖、永と創作を続けているうちに、ストーリーをより明確なものにしていった結果として一つの問題が生じてくる。 これまでのようにキャラクターの最終的な決定権を我々に委ねたままでは、作者と読者の間に思考のズレが生じてくる。そのため場合によっては作品の世界そのものが破綻しかねない。 考えてみれば滑稽な話だ。作品を楽しませるための存在だった弾幕が、今度は作品をぶち壊しにしかねない。 そこでやむなく、パターン性の強い弾幕でキャラクターを厳格に規定せねばならない。ストーリーに関係の深いキャラクターほどこの傾向が見られるのはこのためだ。 結果として小説としては成功したかもしれないが、STGとしてはある意味で「欠陥」が生じてしまったかもしれない。ただ、その「欠陥」を敢えて見せることこそがZUN氏の狙いだったとしたら・・・? 永遠の裏には、常に欠陥が存在するはずでは・・・? うわ、支離滅裂。 |